著者: 無職仙人
第9話: 第九話「“はたらきたくない”の本当の意味」
「はたらきたくないでござる~!」
店内に響いたその第一声に、ナツメは思わずカウンターの布巾を投げた。
「真面目にやるんじゃなかったの!?」
モニターの向こうで、サトルは額に布巾が当たったかのように仰け反る。
「痛っ……いや、掴みは大事でござる。暗い話ほど、入口に灯りが必要なのでござるよ」
ユカが小さく笑った。
炎上の通知音は、まだ鳴り続けている。
店の外には、スマホを構えた人影。
けれど、月見堂の中には、かすかにコーヒーの香りと、いつもの空気が戻り始めていた。
サトルは深く息を吸った。
「ナツメ殿。配信を開くでござる」
「……本気?」
「本気でござる。逃げたら、“逃げ場所”だと決めつけられて終わる。ならば、こちらから言葉を置きに行く」
ナツメは迷った。
怖かった。
また切り取られるかもしれない。
また誰かに笑われるかもしれない。
けれど、ユカがそっと言った。
「私も、話したいです」
その声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
ナツメは頷き、月見堂の公式アカウントを開いた。
画面に表示される文字。
『月見堂より。今夜、“はたらきたくない”の意味を話します』
投稿ボタンを押した瞬間、通知が爆発した。
夜九時。
月見堂の照明は少し落とされ、窓の外には丸い月が浮かんでいた。
不思議なことに、その光は店の中で淡く揺れ、カップの縁に銀色の輪を作っていた。
月見堂に昔からある、小さな噂。
満月の夜、この店で本音を言うと、言葉に少しだけ魔法が宿る。
ナツメは信じていなかった。
でも今夜だけは、信じてもいい気がした。
配信開始。
視聴者数は、あっという間に一万人を超えた。
コメントが流れる。
働きたくない店きた
言い訳タイム?
ちゃんと説明してほしい
見に来た
サトルは画面の向こうで、いつもの寝巻き姿ではなかった。
白いシャツに、少しだけ整えた髪。
「拙者、無職仙人ことサトルでござる」
コメント欄がざわつく。
サトルは続けた。
「まず最初に言うでござる。拙者は、努力する人を馬鹿にしたいわけではない。働く人を否定したいわけでもない」
ナツメは黙って見つめる。
「拙者が言いたいのは――」
サトルの声が、少しだけ低くなった。
「自分が壊れるまで、働く必要はないということ」
コメントの流れが、わずかに遅くなった。
「“はたらきたくない”は、怠けの呪文に聞こえるかもしれない。でも拙者にとっては違う。あれは、心が限界を知らせる警報でござる」
サトルは目を伏せた。
「昔の拙者は、その警報を無視した。大丈夫、大丈夫、まだいける。そう言い聞かせて、ある朝、会社の最寄り駅で足が動かなくなった」
ナツメが息を呑む。
サトルが、そこまで話すのは初めてだった。
「情けないと思った。家族にも言えなかった。だから逃げた。無職仙人なんて名乗って、笑いに変えた」
画面の中のサトルは、笑っていなかった。
「でも、逃げた先で気づいたでござる。休むことは、負けじゃない。立ち止まることは、終わりじゃない」
ユカが一歩前に出た。
「私も、月見堂に逃げてきました」
コメントがまた動く。
ユカは手を握りしめる。
「でも、ここで“ずっと逃げてていい”って言われたことはありません。ナツメさんは、ただコーヒーを出してくれて、サトルさんは変なことを言って……それで、少し笑えたんです」
「変なことは余計でござる」
「余計じゃないです」
ユカは涙をこらえながら笑った。
「笑えたから、また明日を考えられました。私はここで、現実に戻る力をもらいました」
ナツメの胸が熱くなる。
店の外のざわめきも、少し静かになっていた。
その時、コメント欄にひとつの名前が流れた。
昨日投稿した者です。月見堂に通っていました。
ナツメの指先が冷たくなる。
炎上の火種になった投稿者。
コメントが続く。
あの場所に甘えていたのは本当です。
でも、今日の話を聞いて思いました。
甘えたかったんじゃなくて、誰かに「疲れた」と言いたかっただけかもしれません。
店内が静まり返る。
さらに一文。
ひどい書き方をして、すみませんでした。
ナツメは、画面を見つめたまま動けなかった。
サトルが静かに言う。
「謝れる人は、もう戻り始めているでござるよ」
その言葉に、月明かりがふわりと揺れた。
まるで本当に、言葉に魔法が宿ったみたいに。
配信の終わりに、サトルはいつもの調子で扇子を広げた。
「結論でござる」
一拍置く。
「働きたくない日は、たぶん誰にでもある。大事なのは、その声を踏み潰さないこと。聞いた上で、休むのか、変えるのか、助けを求めるのか、自分で選ぶことでござる」
ナツメが続ける。
「月見堂は、働かないことをすすめる店じゃありません」
ユカも頷く。
「また歩き出す前に、少し座っていい場所です」
コメント欄に、ぽつぽつと言葉が流れた。
わかる
泣いた
明日、有給取ります
ちゃんと休むのも大事だよな
月見堂行ってみたい
サトルは最後に、にやりと笑った。
「では皆の衆。明日も無理なく、ほどほどに生きるでござる。はたらきすぎたら、拙者が夢に出るでござるぞ」
「それは普通に迷惑」
ナツメのツッコミで、配信は終わった。
店内に静けさが戻る。
けれどそれは、昨日までの空っぽな静けさではなかった。
ナツメのスマホに、新しい通知が届く。
「月見堂さん、今度話を聞いてもらえますか」
ユカが覗き込み、微笑む。
「……忙しくなりそうですね」
ナツメはため息をついた。
「働きたくないわね」
モニターの向こうでサトルが満面の笑みを浮かべる。
「その言葉、いただきましたでござる!」
月明かりの下、三人は笑った。
炎上の火は、まだ完全には消えていない。
けれどその夜、月見堂には確かに、小さな灯りがともった。