無職仙人の話

著者: 無職仙人

第10話: 第十話「黒い言葉と、月砂糖」

「はたらきたくないでござる~!」

翌朝、月見堂の店内に、いつもの叫びが響いた。

ただし声の主は、カウンター奥の指定席にはいない。
壁に立てかけられた古いタブレットの中で、サトルが布団にくるまり、芋虫のように転がっていた。

「……朝から元気ね、無職仙人」

ナツメはため息をつきながら、コーヒーミルを回す。豆の香ばしい匂いが、昨夜の緊張を少しずつほどいていった。

炎上対応配信から一夜明けた月見堂は、思ったより静かだった。店の前にいた野次馬は減り、SNSの通知音も、昨日ほど暴れていない。

けれど、完全に元通りではない。

窓ガラスの向こうには、まだこちらを気にする視線がある。
ネットの海には、まだ消えていない火種がある。

そして――カウンターの上のスマホに、一通のメッセージが届いていた。

月見堂に通っていた者です。
昨日、謝罪コメントを書いた者です。
直接、謝りに行ってもいいですか。
それと……変なことを言います。
あれから、黒い文字がまとわりついて離れません。

「黒い文字?」

ユカが画面をのぞき込み、眉をひそめた。

サトルはタブレットの中で、もぞりと起き上がる。

「ふむ。ついに来たでござるな」

「何が?」

「炎上後遺症。目を閉じてもコメント欄が流れるやつでござる」

「勝手に病名をつけないで」

ナツメが冷たく言った、そのときだった。

カラン、とドアベルが鳴った。


入ってきたのは、二十代半ばくらいの青年だった。
細い体に、少しくたびれたパーカー。目の下には濃い影があり、眠れていないのがすぐにわかった。

彼はスマホを握りしめていた。画面には、何度も読み返されたのだろう、黒い文字のコメントが並んでいる。

偽善者。
逃げ場所。
甘えるな。
自分だけ救われた気になるな。

それはただの文字なのに、青年の肩を重く沈ませていた。
袖口からのぞく手は、冷えたみたいに白い。

「すみません。俺、月見堂のこと、投稿しました。『ここに通っていたけど、結局何も変わらなかった』って。嘘じゃないんです。でも、あんなふうに広がると思ってなくて……」

ナツメは黙って水を出した。

責める言葉は、喉元まで来ていた。
店を傷つけられた。常連を不安にさせられた。自分だって、眠れなかった。

でも、目の前の青年は、もう十分すぎるほど自分の言葉に追いつめられていた。

「名前は?」

「……ミナトです」

サトルが画面の向こうで、真面目な顔になった。

「ミナト殿。月見堂へようこそ。ここは、説教カフェではなく、いったん座る店でござる」

「でも俺、謝らなきゃ」

「謝るのは大事。でも、謝罪で自分を燃やし尽くすのは、また別のブラック労働でござるよ」

「ブラック……労働?」

「心の中で、自分に無限残業を命じるやつでござる」

ミナトの肩が、びくりと震えた。


ナツメは棚の奥から、小さな瓶を取り出した。
中には、淡い銀色の角砂糖が入っている。

「月砂糖。満月の夜にだけ仕込む砂糖よ」

「えっ、そんなメニューあったんですか?」

ユカが目を丸くする。

「古い喫茶店には、いろいろあるの」

ナツメはカップにコーヒーを注ぎ、月砂糖をひとつ落とした。銀色の粒が、黒い液面で静かにほどける。湯気に混じった甘い香りが、固くなった空気を少しやわらげた。

「飲んで。甘いものは、罪悪感で固まった喉をゆるめるから」

ミナトは両手でカップを包み、ひと口飲んだ。

しばらくして、彼はスマホを伏せた。
画面の黒い文字が見えなくなるだけで、呼吸が少し深くなる。

「……俺、月見堂に来てたんです。就活トーク会にも。でも、みんな少しずつ変わっていくのに、俺だけ動けなくて。ユカさんが就職した話も、サトルさんが配信で話すのも、すごいなって思ったのに……苦しくて」

ユカはゆっくり息を吸った。

「私も、ずっと動けなかったよ。変わったように見えたなら、それはたぶん、見えるところだけ」

「でも、俺はひどいことを」

「うん。傷ついた人はいる」

ナツメは静かに言った。優しいだけでは、嘘になるから。

「でも、ここに来たなら、次の言葉を選べる」

ミナトの目から、ぽろりと涙が落ちた。

サトルが画面越しに、いつもの扇子をぱたんと開く。

「ミナト殿。働くのも、謝るのも、生きるのも、一日で全部取り返そうとしなくていいでござる」

「……いいんですか」

「いいでござる。人間は勇者ではない。毎日魔王を倒さなくてよい」

「じゃあ、俺は何をすれば」

「まず、寝る」

即答だった。

ユカが吹き出し、ナツメも思わず口元をゆるめる。

「そのあと、ちゃんと書けばいい。『自分は嫉妬していた』『傷つけた』『でも、話し合いたい』って。正しい言葉じゃなくて、本当の言葉を」

ミナトは伏せたスマホの横に置かれた紙ナプキンへ、震える手でペンを走らせた。

本当は、置いていかれた気がした。

黒いインクの文字は、もう誰かを刺すためではなく、ミナト自身の奥から出てきた言葉に見えた。


その日、月見堂の入口に新しいノートが置かれた。

表紙には、ナツメの字でこう書かれている。

「本音ノート。きれいじゃない言葉も、まずはここへ」

ただし、その下にサトルが勝手に付け足した一文があった。

「※ただし誹謗中傷はナツメ殿の鉄拳制裁でござる」

「鉄拳なんてしないわよ」

「視線で十分倒せるでござる」

「サトル?」

「すみませんでござる」

ユカは笑いながら、ノートの最初のページを開いた。
ミナトが書いた文字がある。

置いていかれたくなかった。
でも、本当は、ここに戻ってきたかった。

ナツメはその言葉を見つめ、ゆっくりノートを閉じた。

月見堂は、誰かを完璧に救う場所ではない。
間違えた言葉を、なかったことにする場所でもない。

ただ、胸の奥で黒く固まった言葉をいったん置いて、次の一杯を飲める場所。

そのくらいの灯りなら、きっと今日もともせる。

タブレットの中で、サトルが小さく笑った。

「さて、拙者は二度寝という名の自己回復業務に戻るでござる」

「それ、ただの寝坊でしょ」

ナツメのツッコミに、店内がふわりと笑った。

窓の外では、朝の光が看板を照らしている。

古びた文字で書かれた店名――月見堂
その下で、月砂糖の瓶だけが、かすかに銀色を残していた。

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