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無職仙人の話

著者: 無職仙人

第十五話「黒い言葉の整理係」

「はたらきたくないでござる~!」

閉店後の月見堂に、タブレット越しのサトルの声が間延びして響いた。

窓の外では、商店街の街灯と欠けた月が並んでいる。カウンターには本音ノートと、書きかけの当番表。

ナツメはエプロンの紐をほどき、ため息をついた。

「閉店後まで働かせている人が言う台詞じゃないでしょう」

『拙者、応援係でござる。応援は労働に含まれぬ……たぶん』

画面の向こうで、布団に埋もれたサトルの背中へ、巨大な白ウサギ――モチ丸がどすんと乗った。

『ぐえ』

「含まれてるじゃない」

ユカが小さく笑った、そのとき。

からん、と控えめにドアベルが鳴った。

入ってきたのは、ミナトだった。両腕に、黄ばんだ封筒をいくつも抱えている。目の下には影が残っていたが、以前のような追い詰められた顔ではなかった。

「……閉店後にすみません」

ナツメは表情を少しだけ引き締めた。

「今日は受付、終わっています」

「本音を預けに来たんじゃありません」

ミナトは深く頭を下げた。

「手伝わせてください。……俺に、整理をさせてください」


封筒の中身は、印刷された紙束だった。

炎上した投稿。月見堂への批判。匿名の悪意。誤解のまま広がった言葉。なかには、ミナト自身が書いたものも混じっている。

紙の端には黒い煤がこびりつき、触れると指先が冷えた。

「分類したいんです」

ミナトは震える手で紙を並べた。

「ただ傷つけたいだけの言葉。誤解から出た言葉。本当は助けてほしい言葉。それから……返すべき言葉」

サトルが、モチ丸に押し潰されながら片手を上げた。

『心の未処理フォルダ、容量オーバーでござるな』

「……はい。見ないふりをしていると、黒い文字が頭の中で勝手に増えるんです」

ナツメは黙っていた。

彼の言葉が店を傷つけたのは事実だ。けれど、目の前のミナトはもう、誰かの後ろに隠れて石を投げる人ではなかった。

ナツメは月砂糖の瓶を取り、静かに言った。

「一時間だけね。無理はしない。煤が増えたら、すぐ休むこと」

「……はい」

「それと、これは罰じゃないわ。償いを理由に、自分を壊さないで」

ミナトの喉が、小さく鳴った。

「ありがとうございます」


作業は静かに始まった。

ユカが本音ノートを横に置き、ナツメがコーヒーを淹れる。月砂糖をひとさじ落とすと、紙の端の煤が、淡い煙のように少しだけほどけた。

ミナトは一枚ずつ読み上げる。

「“月見堂は甘やかしの店だ”……これは、誤解」

「“働けない人間を持ち上げるな”……怒り。でも、怖さもあると思います」

「“自分だけ頑張ってるのが馬鹿みたいだ”……これは、本音」

ユカが番号を振り、ナツメが短くメモを添えた。

怒りの下に、疲れあり。

そのとき、紙束の奥から厚手の便箋が滑り落ちた。白い封筒には企業名。文面には、月見堂の活動について「相談したい」と書かれている。

「……批判じゃなさそうね」

ユカが目を丸くした。

「企業から、依頼ですか?」

タブレットの向こうでサトルが真顔になった。

『月見堂、ついに企業案件でござるか。はたらきたくない侍、出陣の危機』

「茶化さないの。これは明日、ちゃんと読みます。今はこっち」

ナツメは封筒を別のトレイへ置いた。

ミナトはうなずき、最後の一枚を手に取った。

自分の投稿だった。

「……“月見堂に救われたとか言ってる人たちは、結局甘えてるだけだ”」

声が震える。

「“本当に苦しい人間は、そんな場所にも行けない”」

店内の空気が重くなった。

「これを書いたとき、俺、本当は……置いていかれたって思ってました。みんなが救われていくのが悔しかった。俺だけ、まだ暗いところにいる気がした」

誰も責めなかった。

ミナトは新しい便箋を引き寄せる。

「謝罪文、書きます。店にじゃなくて……あの投稿を見て傷ついた人に」

ペン先が紙に触れた。

あのときの僕は、苦しさを誰かへの刃に変えました。
あなたが救われたことを、否定してしまってごめんなさい。
僕も、本当は救われたかったのだと思います。

煤が、少しだけ薄くなった。

完全には消えない。けれど黒一色だった紙の端に、月明かりみたいな余白が生まれた。


一時間後。

当番表の「本音ノート整理」の欄に、ミナトの名前が鉛筆で書き込まれた。まだ仮の、消せる文字だ。

ナツメは言った。

「無理だと思ったら、すぐ言ってね」

「はい」

「逃げないで、じゃないの。壊れる前に止まって、ってこと」

ミナトは少し笑った。

「……月見堂っぽいですね」

ユカが隣に座り、本音ノートを開いた。

「次は煤の少ないページからにしよう。いきなり重いのばかりだと、心が残業しちゃうから」

『名言でござる。心の残業代、未払い禁止』

画面の向こうで、モチ丸がサトルの頭にあごを乗せる。

ミナトが、今度ははっきり笑った。

ノートには、誰かの小さな文字があった。

今日は少しだけ、休めました。

壊した言葉は、消えない。

けれど、壊した人が直す側に回ることはできる。

月見堂の閉店後、静かなランプの下で。

黒い言葉の整理係が、ゆっくりと最初の仕事を始めた。

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