著者: 無職仙人
第十四話「預かる人の当番表」
一時間後、ナツメは閉店札を外す手が少し震えていることに気づいた。
木製の札は、たった一時間ぶら下がっていただけなのに、妙に重く感じる。
窓の外では、昼の白い月がまだ薄雲の向こうに浮かんでいた。店先の行列は、休憩前よりも少しだけ短くなっている。けれど消えてはいない。
縁石に腰かけていたスーツの男性。空を見上げていた学生。番号札を胸に当てて待っていた老婦人。
彼らはナツメが扉を開けると、一斉に立ち上がった。
責められるかもしれない。
遅い、と言われるかもしれない。
喉の奥がきゅっと狭くなる。
「……お待たせしました」
ナツメは深く頭を下げた。
その瞬間、先頭の老婦人がふわりと笑った。
「いい休憩だったわ。久しぶりに、ただ空を見たの」
その言葉に、ナツメの胸の奥で固まっていたものが少しだけほどけた。
タブレットの向こうで、布団から半分だけ顔を出したサトルが親指を立てる。
『休憩、偉大でござるな』
「サトルさんは休憩しかしてないですよね?」
ユカが即座に突っ込む。
画面の端から巨大白ウサギのモチ丸がぬっと現れ、サトルの頭を前足で押さえた。
『見よ、拙者も過酷な重圧に耐えているでござる』
「それは自業自得というか、羨ましいというか……」
ユカが苦笑した、そのときだった。
彼女が抱えていた本音ノートの端に、黒い粉のようなものが小さく付いているのを、ナツメは見た。
ほんの少し。
インクのかすれにも見える、小さな黒い煤。
「ユカ」
「はい?」
「ノート、見せて」
ユカが差し出したノートの角。昨日まで真っ白だったそこに、確かに黒い煤がこびりついている。
ユカの表情がわずかに曇った。
「……私にも、付くんですね」
店内の空気が、少しだけ冷えた。
預かるのはナツメだけじゃない。
本音ノートを抱え、紙片を整理し、短い返事を書いているユカにも、見えない重みは積もっている。
ナツメはカウンターの上の月砂糖の瓶を見た。銀色の粒が、昼の月の光を受けて淡く瞬いている。
「やっぱり、仕組みがいるな」
「仕組み?」
ユカが顔を上げる。
ナツメはうなずいた。
「気合いで全部受け止めるのは、たぶん違う。月見堂が避難所なら、避難所にも受付時間とか、交代とか、休憩場所が必要だ」
サトルが画面の向こうで、ぱちぱちと拍手した。
『ついにナツメ殿が労務管理に目覚めたでござる』
「茶化すな」
『いや、これは大事でござるよ。善意の無限残業は、心を静かに焼くでござる』
その言葉は軽いのに、妙にまっすぐ胸に届いた。
ユカは少し考え込んでから、カウンターに置かれたメモ帳を引き寄せた。
「じゃあ……こういうのはどうですか」
さらさらとペンが走る。
本音受付時間
午前:十一時から十三時まで
午後:十五時から十七時まで
※一時間に預かれる本音は十枚まで
※休憩中は、空を見る・水を飲む・深呼吸する
「それと」
ユカはもう一枚、別の紙に大きな文字を書いた。
ただいま、本音を預かる人も休憩中です。
あなたの本音も、あなた自身も、ここで待っていて大丈夫です。
ナツメはその紙を見つめた。
胸の奥に、また少し熱いものが広がる。
「……いいな」
「本当ですか?」
「ああ。すごく、いい」
ユカの頬が少し赤くなった。
けれど彼女はすぐに、ノートの端の黒い煤を指でそっと払った。煤は消えず、指先に薄く残る。
それを見て、ナツメは決めた。
「今日から、当番表も作ろう」
「当番表?」
「本音を受け取る人、返事を書く人、コーヒーを淹れる人、休む人。全部ちゃんと分ける」
『拙者は寝る人担当でござる!』
「サトルは黙ってて」
『ひどいでござる! 適材適所なのに!』
モチ丸が同意するように、サトルの頬をむにむに踏んだ。
店先に出ると、行列の人々がまたこちらを見た。
さっきとは違う緊張がある。
ナツメは紙を握りしめた。ユカが隣に立つ。本音ノートを抱えた彼女の指先には、まだ少しだけ黒い煤が残っていた。
だからこそ、今言わなければならない。
ナツメは息を吸った。
「すみません。月見堂は今日から、一日に預かれる本音の数を決めます」
行列が静まり返る。
「今日は、あと十枚までです。それ以上は、明日以降になります」
言った。
言ってしまった。
胸がざわつく。断ることは、見捨てることに似ている気がして怖い。
けれど――。
先頭の老婦人が、隣の学生に番号札を差し出した。
「私は明日でいいわ。あなた、顔色が悪いもの」
「えっ、でも……」
「年寄りは待つのが上手なの」
後ろのスーツ男性も、小さく手を上げた。
「僕も、今日は大丈夫です。休憩中に少し楽になりました」
「私、紙だけ預けようと思ってたけど……家で書き直してきます」
列のあちこちで、そんな声がぽつぽつと上がった。
誰も責めない。
むしろ、席を譲るように、順番を分け合っている。
ナツメは思わず目を伏せた。
助ける場所を守るために線を引くことは、冷たさじゃないのかもしれない。
ユカが隣で小さく笑う。
「ナツメさん」
「ん?」
「月見堂、ちょっと店っぽくなりましたね」
「今まで何だったんだ」
「えっと……魂の野戦病院?」
「物騒すぎる」
二人で笑うと、店内からタブレット越しの声が飛んできた。
『本音の避難所、シフト制導入でござる~!』
「それ、妙に嫌な響きだな」
それでもナツメは、もう一度行列に向き直った。
「では、今日の受付を始めます。ただし、途中で休憩を挟みます。月見堂も、みなさんも」
白い昼の月の下で、何人かがうなずいた。
その光景は、不思議なくらい穏やかだった。
夕方。
最後の十枚目の本音を本音ノートに挟み、ユカがそっと表紙を閉じた。
黒い煤は少し残っていたけれど、月砂糖入りのコーヒーの湯気に触れると、端から淡くほどけていく。
ナツメは入口へ向かい、新しい札を掛けた。
本日の本音受付はここまで。
明日も、月は出ます。
外ではまだ何人かが空を見上げていた。
白い月は、少しだけ薄くなっている。
ナツメは扉を閉める前に、ユカを振り返った。
「明日の当番表、作ろうか」
ユカは本音ノートを抱え直し、にっこり笑った。
「はい。休む人の欄、大きめでお願いします」
ナツメは笑ってうなずいた。
月見堂は今日、またひとつ覚えた。
本音を預かるためには、預かる人を守る仕組みも必要なのだと。