本文へスキップ

無職仙人の話

著者: 無職仙人

第十六話「支える人の赤信号」

「はたらきたくないでござる~!」

朝の月見堂に、タブレット越しの声が景気よく響いた。

まだ開店前。窓ガラスには商店街の薄い光が貼りつき、カウンターの上では本音ノートと当番表が、昨夜の余韻を残したまま並んでいる。

画面の向こうでサトルは、巨大白ウサギ・モチ丸の腹に半分埋もれていた。

「朝からそれですか」

ナツメがコーヒーミルを回しながら呆れる。

「朝だからこそでござる。労働意欲が目覚める前に、先制攻撃を――ぐえっ」

モチ丸の前足が、サトルの肩にのしかかった。

ユカは思わず笑った。

笑った、つもりだった。

けれど、その笑顔は途中で少しだけ引っかかった。口角だけが上がって、目元が追いつかない。

ナツメはそれに気づいたが、何も言わず、ミルの音を少しだけゆっくりにした。


開店すると、今日も本音受付の札が表に出された。

「一時間十枚まで」

「返事は急ぎません」

「預かる人も休みます」

そう書いた紙を見て、並んでいた客たちは小さくうなずく。月見堂の行列は以前より短くなったが、消えたわけではない。誰かの胸に沈んだ言葉は、今日も紙片になってポストや扉の隙間に舞い込んでくる。

ユカは出勤前の時間を使い、本音ノートを開いた。

「今日、私、午後から仕事なので……午前中だけ返事、やりますね」

「午前中だけ、ね」

ナツメが念を押す。

「はい。大丈夫です」

ユカはすぐに答えた。

その声があまりに早かったので、ナツメは眉をひそめる。

ミナトは隅の席で、黒い言葉の分類をしていた。炎上投稿、匿名の悪意、返す必要のない罵声。紙束の間に指を滑らせながら、彼はふとユカの手元を見る。

ユカが書いた返事の一枚。

「休みたいと思うのは、弱いからではありません」

丁寧で、やさしい文字だった。

けれど、行の端に、うっすら黒い煤がにじんでいた。

「……ユカさん」

ミナトが小さく呼ぶ。

「はい?」

「その返事、煤が」

「え?」

ユカは紙を持ち上げた。指先に、灰のような黒がつく。

「変ですね。さっき月砂糖コーヒー、飲んだのに」

「ユカの返事に煤が出るのは、変じゃない」

ナツメの声が、カウンターの向こうから静かに落ちた。

ユカは固まった。

サトルも画面の中で、ふざけた顔をやめていた。モチ丸だけが、もふ、と耳を揺らす。

「それ、預かった本音の煤じゃなくて、ユカ自身の赤信号でござる」

「赤信号……」

ユカは笑おうとした。

「でも、私、まだ大丈夫です。仕事も前より無理してないし、月見堂の手伝いだって、好きでやってることだから」

「好きなことでも、抱えすぎたら重いです」

ミナトが言った。

自分で驚いたように、彼は口を閉じる。けれど、もう一度言葉を選んだ。

「僕、黒い言葉ばかり見てるから……少しだけ、わかります。無理してる返事は、やさしくても煤が出る」

ユカの指が震えた。

本音ノートの端が、淡く光った。

光というより、紙の繊維の奥から文字が浮かぶようだった。そこには、ユカ自身の筆跡で、薄くこう書かれていた。

「役に立てなくなったら、ここにいていい理由がなくなる気がする」

誰も、すぐには声を出せなかった。

ユカの頬から、血の気が引いていく。

「……私、書いてないです」

「うん」

ナツメはカウンターを出て、ユカの隣に立った。

「でも、言えなかったんだと思う」

その言葉で、ユカの目が揺れた。

「私、助けてもらったから。今度は、助ける側にならなきゃって。ナツメさん一人にさせたくなくて。ミナトさんも頑張ってるし、サトルさんだって旅先からつないでくれてるし……私だけ休むのは、ずるい気がして」

「ずるくない」

ナツメは即答した。

その声は厳しかった。けれど、刃物ではなく、倒れそうな人の前に置かれた柵みたいな厳しさだった。

「ユカ、今日はもう手伝い禁止」

「でも」

「休む番です」

ユカの言葉を、ナツメはまっすぐ止めた。

「月見堂は、役に立つ人だけの場所じゃない。助ける人だけがいていい場所でもない。疲れたら座る場所。あなたが最初に、それを私たちに教えてくれたんでしょ」

ユカは唇を噛んだ。

タブレットの向こうで、サトルが小さく手を上げる。

「補足でござる。『役に立たないと居場所がない』は、心のブラック企業が発行する偽の社員証でござる。即刻返却すべし」

「偽の……社員証」

ユカは泣きそうな顔で、少し笑った。

その笑いは、今度はちゃんと目元まで届いた。


昼前。

ユカは客席の一番奥に座り、月砂糖入りのカフェオレを両手で包んでいた。返事を書くペンは、ナツメが預かった。代わりに、窓の外の空を見る時間を渡された。

冬に近づく空は淡く、雲の切れ間に白い月がまだ残っている。

「私、頼ってもいいんですね」

ぽつりと落ちた言葉に、ナツメはうなずいた。

「いい。むしろ頼って」

ミナトがぎこちなく当番表を持ってくる。

「本音ノート整理、僕が少し多めにやります。罰じゃなくて、担当として」

「無理しない範囲で」

「はい」

サトルが画面の中で親指を立てた。

「みんなでサボれば怖くないでござる」

「それは違う」

ナツメのツッコミに、店内の空気が少しほどけた。

ユカは立ち上がり、補助当番表の前に行く。

名前の欄。時間の欄。休む人の欄。

今まで、そこに自分の名前を書く時は、必ず「返事」か「整理」だった。

ユカは鉛筆を握り、少し迷ってから、今日の午後の欄にゆっくり書いた。

ユカ 休日

たった四文字。

けれどそれは、彼女にとって初めての本音の返事だった。

本音ノートの端に浮かんでいた薄い文字が、月砂糖が溶けるみたいに、少しだけ淡くなった。店の奥でランプが揺れ、モチ丸が画面越しに大きなあくびをする。

月見堂は今日も開いている。

けれど、支える人が倒れないように。

小さな休日の文字を、誰も消さなかった。

コメント (0)

コメントを投稿

コメントは管理者の承認後に公開されます。

この連載を購読する

新しい話が公開されたとき、メールでお知らせします。