著者: 無職仙人
第十三話「臨時休業の勇気」
「はたらきたくないでござる~!」
タブレットの向こうで、サトルが布団にくるまりながら高らかに宣言した。
月見堂の店先には、今日も白い昼の月が浮かんでいる。薄い雲に透けたそれは、空に置き忘れられた皿みたいだった。
そして、その下には――行列。
「サトルさん、開口一番それですか」
本音ノートを抱えたユカが、タブレットをじとっと睨む。画面の中では、巨大白ウサギのモチ丸がサトルの腹の上に乗り、ふかふかの毛玉として圧政を敷いていた。
『違うでござるユカ氏。これは怠惰ではない。危機管理でござる』
「どう見ても寝起きですけど」
『働きたくないという叫びは、魂の火災報知器なのでござる!』
ナツメはカウンターの奥で、月砂糖の瓶を手にしたまま苦笑した。
笑う余裕があるだけ、昨日よりはましだ。けれど、ましなだけだった。
昨日からずっと、本音を受け取り続けている。紙片、番号札、しわくちゃのレシート、折り鶴の羽の内側に書かれた文字まで。
――疲れたと言うと、負けた気がする。
――家族のために働いているのに、家族の顔を見る元気がない。
――夢を追う友達を応援したい。でも、置いていかれるのが怖い。
どれも軽くない。
預かるたび、胸の奥に黒い煤が少しずつ積もっていく気がした。
「……本音の避難所って、けっこう体力いるんだな」
思わずこぼすと、ユカが顔を上げた。
「ナツメさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫、って言いたいところだけど」
ナツメは店の外を見た。先頭には小柄な老婦人が立ち、番号札を両手で握りしめている。
断れない。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
そのとき、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、銀髪を三つ編みにした少女だった。濃紺のケープに、斜めがけの鞄。満月便の配達人。
「納品です」
「今日って、満月じゃないよね?」
「臨時便です。過重労働の気配を検知しました」
少女はカウンターに小さな紙袋を置いた。中には淡く銀色に光る月砂糖。そして、もう一枚の封筒。
表には丸い字でこう書かれていた。
『休む店にも、月は出ます』
中には、たった一行。
本音を預かる人の本音も、預けてください。
言葉が、胸の奥に落ちた。
ユカも黙った。サトルも画面の向こうで、珍しく口を閉じている。
モチ丸だけが、むに、とサトルの頬を踏んだ。
『ぐえ』
ナツメはタブレットに向き直った。
「サトル。店、少しだけ閉めてもいいと思う?」
サトルは目をぱちぱちさせたあと、にやりと笑った。
『拙者にそれを聞くとは、ナツメ殿も成長したでござるな』
「茶化さないの」
『いいに決まってるでござる』
その声は、いつものふざけた調子より少しだけ低かった。
『避難所が燃え尽きたら、逃げ込む場所がなくなるでござる。休むのも、店を守る仕事でござるよ』
「……仕事、か」
「ナツメさん」
ユカがそっと本音ノートを開く。白いページが一枚、まだ何も書かれずに残っていた。
「書きましょう。ナツメさんの本音」
ナツメはペンを受け取った。手が少し震えていることに、そのとき初めて気づいた。
――本当は、少し休みたい。
そう書いた瞬間、文字の端から黒い煤がふわりとにじんだ。けれど煤は、月砂糖の瓶から漏れた銀色の光に触れると、煙のようにほどけて消えた。
肩から、何かが落ちた気がした。
店先に出ると、行列の人々が一斉にこちらを見た。
責められるかもしれない。
喉がからからになる。それでもナツメは深く息を吸った。コーヒーの香り。冬に近づく風の匂い。昼の月の冷たい光。
全部を胸に入れて、看板の横に新しい札を掲げる。
本日、月見堂は一時間だけ休憩します。
本音は逃げません。あなたも、逃げません。
だから少し、一緒に休みましょう。
沈黙が落ちた。
最初に動いたのは、先頭の老婦人だった。彼女は番号札を胸に当て、小さく笑う。
「……そうね。待つのも、休むうちね」
その声を合図にしたように、行列のあちこちからため息が漏れた。怒りではなく、緊張がほどける音だった。
スーツの男性が縁石に腰を下ろす。学生らしき少女が空を見上げる。誰かがコンビニ袋からおにぎりを取り出し、隣の人に「半分いります?」と聞いた。
「休むって、伝染するんですね」
ユカがぽつりと言う。
「風邪みたいに言うな」
「でも、いい伝染です」
店内に戻ると、満月便の少女が月砂糖入りのコーヒーを三つ並べていた。
「休憩用です」
「いつの間に淹れたんだ」
「配達人は、必要な場所にいます」
「……そういうものか」
少女は真顔でうなずいた。
「そういう労働条件です」
タブレットの中でサトルが拍手した。
『名言いただきましたー!』
ナツメはカップを手に取った。甘い香りが湯気に混じって立ちのぼる。ひと口飲むと、舌の上でやわらかな甘さがほどけた。
完璧に疲れが消えるわけじゃない。問題が全部解決するわけでもない。
でも、一時間だけなら。
自分のために椅子へ座ってもいいと思えた。
窓の外では、人々が静かに空を見上げている。白い月はまだそこにある。本音もまだ、なくならない。
それでも月見堂は今日、初めて知った。
誰かを休ませる場所であるために、まず自分たちも休んでいいのだと。
ナツメはカップを置き、小さく笑った。
「一時間後に、また開けよう」
画面の中でサトルが親指を立てる。
『その意気でござる。働きたくない心を大事に働く――これぞ月見堂流でござる!』
モチ丸が同意するように、サトルの顔面へどふんと寝転がった。
『むぎゅ』
ユカが吹き出し、ナツメも笑った。
その笑い声は、昼の月の下、店の外まで少しだけこぼれていった。