著者: 無職仙人
第十二話「昼の月と、本音の行列」
「はたらきたくないでござる~!」
タブレットの中から、サトルの声が寝起きの鐘みたいに鳴った。
カウンターの向こうでナツメは、挽きたての豆をドリッパーに移しながら半眼になる。
「……起きてたと思ったら、それ?」
画面の向こうのサトルは、山あいの民宿らしき畳の上で、巨大な白ウサギ――モチ丸に腹のあたりを圧迫されていた。
「違うのでござる。これは労働拒否ではなく、生命維持活動でござる。モチ丸が重い。動けぬ」
「それ、たぶんウサギ側も同じこと思ってるわよ」
そのときだった。
からん。
入口のベルが鳴った。
けれど、扉は開いていない。
ユカが本音ノートを抱えたまま、振り返る。
ドアの前に、白い紙片が一枚落ちていた。
昼の月から剥がれた欠片みたいに、薄く、頼りなく。
そこには丸い字で、こう書かれていた。
休みたいって言ったら、嫌われますか。
紙は濡れていないのに、長いあいだ誰かの手の中で握られていたように、くしゃりと皺が寄っていた。
ナツメは指先でそっと拾う。
「……重い」
重さがあるわけではない。
けれど、胸の奥に小さな石を置かれたような感じがした。
ユカが小さく息をのむ。
「これ、誰かの本音ですよね」
サトルが画面の中で真面目な顔を出した。
「言えなかった言葉が、迷子になったのでござるな」
「急に詩人ぶるのやめて。怖いから」
言いながら、ナツメは窓の外を見た。
まだ昼だというのに、白い月が浮かんでいる。
その下、店の向かいの古いバス停に、人影がひとつ立っていた。
スーツ姿の若い女性。
けれど目をこすった次の瞬間、その姿は消えていた。
からん。
からん。
ベルが続けて鳴る。
今度は紙片ではなく、番号札のような小さなカードが二枚、床に落ちた。
二番 「がんばってないのに、疲れたなんて言えない」
三番 「仕事に行く靴を履くと、息が苦しくなる」
ユカが窓へ駆け寄った。
「ナツメさん、外……!」
バス停の前に、行列ができていた。
とはいえ、はっきり人がいるわけではない。
陽炎のように輪郭が揺れ、背広の袖や、学生鞄の端や、買い物袋だけが一瞬見えては消える。
みんな、月見堂のほうを向いている。
ナツメは思わず後ずさった。
「ちょっと待って。店内、十席しかないんだけど」
「席の問題でござるか?」
「心の準備の問題よ」
逃げたい、と思った。
店を閉めて、見なかったことにして、いつものようにコーヒーだけを淹れていたい。
けれど、カウンターの端には本音ノートがある。
ミナトが震える字で書いたページが、まだそこにある。
「うらやましかった。助けてほしかった。」
ナツメは深く息を吸った。
「ユカちゃん、ポット出して。紙コップも」
「外に行くんですか?」
「行列が入れないなら、こっちから出るしかないでしょ」
サトルが画面の中で目を丸くした。
「ナツメ殿、店主っぽい」
「店主なのよ、最初から」
「知ってたでござる」
モチ丸が、ぽふん、とサトルの顔に前足を置いた。
店先に小さな机を出し、ナツメは黒板にチョークで書いた。
本音、一枚からお預かりします。
返事は、急ぎません。
ユカは月砂糖をひと粒ずつ紙コップに落とした。
コーヒーを注ぐと、湯気がふわりと立ちのぼり、昼の光の中で銀色に細くほどけた。
最初に現れたのは、さっきの若い女性だった。
輪郭は薄い。
けれど、手だけははっきりしていた。爪の先が少し荒れている、働く人の手だった。
彼女は声を出さず、番号札を机に置いた。
ナツメはうなずく。
「ここに置いていって大丈夫です」
女性の肩が、ほんの少し下がった。
ユカが紙コップを差し出す。
「飲めなくても、持ってるだけでいいです」
女性は両手で包むように受け取った。
すると、曖昧だった輪郭が少しだけ濃くなり、顔に疲れた笑みが浮かんだ。
次に、作業着の男性。
次に、制服の少年。
次に、買い物袋を提げた年配の人。
誰も長くは話さない。
ただ一枚、言葉を置いていく。
大丈夫って言いすぎて、自分の声がわからない。
休んだ同僚に優しくできない自分が嫌い。
家に帰っても、ほっとできない。
ナツメは答えを書きすぎないようにした。
そう思う日があってもいいです。
ここでは、急がなくて大丈夫です。
たったそれだけなのに、紙の皺が少し伸びる。
文字の滲みが乾いていく。
サトルがタブレット越しに、静かに言った。
「本音は、解決してほしいとは限らぬのでござるな」
ナツメはペンを止めずに答える。
「うん。まずは、誰かに落とさず持ってもらいたいだけの日もある」
昼の月は、まだ空にあった。
行列は少しずつ短くなっていく。
けれど、完全には消えない。
きっと明日も、誰かが来る。
ナツメは最後の紙コップにコーヒーを注ぎ、ふっと笑った。
「……忙しくなるわね」
画面の中でサトルが親指を立てる。
「こういう忙しさなら、嫌いじゃないでござる」
「じゃあ帰ってきたら手伝いなさい」
「モチ丸がどいてくれたら」
モチ丸は、どく気配もなく丸くなった。
ユカが吹き出し、ナツメもつられて笑う。
からん。
また、ベルが鳴った。
昼の月の下、月見堂には今日も、名前のない本音がやってくる。
働く人も、働けない人も、がんばれない人も。
一枚ずつ、少しずつ。
ここに置いて、また息ができるように。