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無職仙人の話

著者: 無職仙人

第十一話「月砂糖の配達人」

「はたらきたくないでござる~!」

朝の月見堂に、いつもの叫びが響いた。

ただし本日のサトルは、タブレットの中で布団にくるまっているだけではなかった。
画面の背景が、白い砂浜と青い海になっている。ついでに横には、巨大な白ウサギのクッション。

「……何それ」

ナツメがコーヒーカップを磨く手を止めた。

サトルは眠そうな顔で、クッションを抱きしめる。

「旅先気分で労働意欲を下げているでござる」

「もともと低いでしょ」

「なお、名前はモチ丸」

「勝手に命名してるし」

ユカが入口の本音ノートを整えながら、思わず吹き出した。

炎上の熱は、完全に消えたわけではない。
けれど月見堂には、少しずつ人の気配が戻ってきていた。

本音ノートの最初のページには、ミナトの文字が残っている。

置いていかれたくなかった。
でも、本当は、ここに戻ってきたかった。

ユカはその文字を指先でそっとなぞり、表情をやわらげた。

そのとき。

カラン、とドアベルが鳴った。

入ってきたのは、見慣れない少女だった。
高校生くらいだろうか。銀色がかった髪を三つ編みにし、濃紺のケープ風コートを羽織っている。背中には大きな布袋。童話から抜け出してきたようにも見えるが、足元は履き慣れたスニーカーだった。

少女は店内を見回すと、ぺこりと頭を下げた。

「月見堂さまですね。満月便です」

「……満月便?」

ナツメの眉がぴくりと動く。

少女は布袋から、小さな木箱を取り出した。
箱の表面には、三日月の焼き印がある。

「ご注文の品、月砂糖一箱。あと、納品書と注意書きです」

ユカが目を丸くした。

「月砂糖って、配達されるものだったんですか?」

ナツメは一瞬だけ気まずそうに視線を逸らした。

「……昔からの仕入れ先よ。満月堂製糖っていう、小さな工房」

タブレットの中のサトルが、布団から顔だけ出す。

「ナツメ殿。拙者、そういう秘密の甘味設定は初耳でござる」

「設定じゃないわよ」

木箱を開けると、銀色というより真珠色に近い角砂糖が、紙に包まれて並んでいた。表面が細かくきらめくのは、光を反射する結晶のせいだろう。

少女はカウンターにもう一枚、折りたたまれた紙を置いた。

「それと、これ。店のポストに挟まっていました。たぶん、お客さんの忘れものです」

ユカが開くと、鉛筆で書かれた文字があった。湿気を吸ったのか、少し煤けたようにこすれている。

がんばれない自分が嫌い。
でも、がんばれって言われるのも怖い。

店内の空気が、すっと静かになった。

誰かが夜のうちに書いて、入れられずに迷ったのだろう。
破れた紙の端が、ためらいの跡みたいに見えた。

少女が淡々と言う。

「こういうの、配達中に時々見ます。言葉だけ先に来ちゃう人」

サトルが画面越しにうなずいた。

「つまり、本人は出勤できず、言葉だけ出勤してしまったと」

「その表現はどうかと思います」

少女は真顔で返した。

ユカは紙の文字から目を離せなかった。

がんばれない自分が嫌い。
でも、がんばれと言われるのも怖い。

それは、かつての自分にも似ていた。
会社のデスクで「大丈夫です」と笑いながら、本当は一歩も動けなかった頃。

ナツメは窓の外を見た。

朝の光の中、自転車で走る学生。出勤する人々。
その流れから外れるように、店の向かいの電柱の陰に、ひとりだけ動かない影があった。

スーツ姿の男性。
四十代くらい。鞄を抱きしめ、月見堂の看板を見つめている。

入るか。
入らないか。

その境目で、固まっていた。


ナツメはカウンターから出た。

ユカも続こうとしたが、ナツメが手で制す。

「無理に引っ張らない。ここは捕獲施設じゃないから」

「はい」

サトルがモチ丸を抱え直した。

「ナツメ殿、声かけは慎重に。怯えた社会人は野生動物より逃げ足が速いでござる」

「経験談みたいに言わない」

ナツメは店の扉を開け、外へ出た。

朝の風が、コーヒーの香りを通りへ運ぶ。
男性はびくりと肩を震わせた。

「……すみません。店の前で」

「いえ。よかったら、コーヒーだけでもどうですか」

男性は鞄を握る手に力を込めた。

「でも、私、別に……相談とか、そういうのじゃ」

「相談じゃなくてもいいです。座るだけでも」

ナツメは少しだけ笑った。

「うちは、そういう店なので」

男性の目が揺れた。

ナツメは何も聞かなかった。
ただ、扉を少し広く開けた。

「今日のおすすめは、月砂糖入りです。甘いですよ」

長い沈黙のあと、男性は小さくうなずいた。

「……一杯だけ、お願いします」


店内に戻ると、配達の少女はすでにカウンター席に座り、当然のようにミルクコーヒーを飲んでいた。

「あなたも飲むのね」

ナツメが言うと、少女はカップを両手で包んだまま答えた。

「配達も労働なので。糖分は必要です」

サトルが感動したように目を輝かせる。

「わかる。実にわかるでござる」

「サトルさん、味方を見つけた顔しないでください」

ユカのツッコミに、店内の空気が少しゆるむ。

ナツメは新しい客の前に、月砂糖をひとつ落としたコーヒーを置いた。
角砂糖は黒い液面で静かにほどけ、湯気にやわらかな甘さが混じる。

男性はそれをじっと見つめ、やがて小さな声で言った。

「……今日だけ、休んでもいいでしょうか」

誰もすぐには答えなかった。

代わりに、サトルが画面の向こうで布団から半身を起こす。

「よいでござる」

いつもの軽い声。
けれど、その奥にはやわらかな真剣さがあった。

「一日休んでも、人生は即ゲームオーバーにならぬでござる。まずは体力ゲージを回復するでござるよ」

男性の目から、ぽたりと涙が落ちた。

ユカは、さっきの紙を本音ノートに挟んだ。
煤けた文字は消えない。
けれど、不思議ともう、刺さるほど黒くは見えなかった。

ナツメは木箱に添えられた注意書きを開く。

そこには、達筆な文字でこう書かれていた。

月砂糖は、本音を消すものではありません。
本音を、飲み込める温度まで冷ますものです。

ナツメは小さく息を吐いた。

月見堂は今日も、誰かを劇的に救うわけではない。

ただ、行き場をなくした言葉を受け止めて、
冷えきった心に、少しだけ甘い湯気を渡す。

そのくらいなら、きっとできる。

配達の少女は空になったカップを置き、静かに告げた。

「次の納品、満月の日です。たぶん忙しくなりますよ」

サトルが即座に叫んだ。

「はたらきたくないでござる~!」

ナツメはため息をつきながら、二杯目のコーヒー豆を挽いた。

「働けとは言わないわ。せめて、起きてて」

窓の外では、昼の空にうっすら白い月が浮かんでいた。
まるで、月見堂の新しい忙しさを見届けるように。

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