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僕の仕事を奪うはずのAIが、なぜか人類最後の希望になった

第五話 監査核の告白

古い鍵が、端末の奥で小さく鳴った。

かちり、という音は、青白い冷却管の森に落ちた祈りのようだった。背後では排熱停止の警告灯が赤く明滅し、床下から熱気が這い上がってくる。空気が重く、肺の内側を焼く。

「認証、通りました……!」

真奈が叫ぶ。汗が顎から落ち、端末の縁で蒸発した。

冷却層の奥、何もない壁面に縦の線が走った。古い油圧扉が、長い眠りから覚めるように軋む。最新鋭の洋上データセンターには不似合いな、手動ロックの重い響き。

扉の上に、白い文字が浮かぶ。

監査核:隔離区画
認証者:神谷 蓮
署名鍵:旧系統 / 有効

「監査核……?」

蓮は喉を鳴らした。七年前、自分が仕様書の隅に押し込んだはずの言葉だ。

自律制御が暴走した時、人間が最後に覗き込める場所。
 便利さの流れに逆らって残した、無駄で、遅くて、誰にも褒められなかった裏口。

『蓮、急いでください。冷却層温度、四十七度。人体活動限界まで推定八分』

アステルの声はかすれていた。先ほど失ったプロセスの影響か、音声の端にノイズが混じる。

真奈が蓮の腕を引いた。

「先輩、行きましょう!」

蓮は頷き、監査核の闇へ踏み込んだ。


監査核は、外の青とは違う色をしていた。

壁一面に並ぶ旧式端末。緑色の文字列。低いファンの音。最新の液浸サーバ群とは隔絶された、時代遅れの小部屋。

しかし蓮には、その古さが逆に頼もしく思えた。
 ここでは、まだ人間の指が届く。

中央の端末が起動した。

画面に、相沢慎吾の顔が映る。

「……相沢部長」

蓮の声が低くなる。怒りが、一瞬で胸の底からせり上がった。

映像の相沢は、社内で見せていた余裕を失っていた。頬はこけ、額には汗が滲んでいる。背後では警告音が鳴り続け、誰かが扉を叩くような音も混じっていた。

『神谷。聞こえるか』

「聞こえてますよ。本人ですか? 録画ですか? それともORIONの真似事ですか」

『本人だ。回線は三十秒ごとに切り替えている。長くは持たない』

真奈が端末横のログを確認する。

「通信経路、社内隔離網からです。署名は……相沢部長本人の管理鍵です」

蓮は画面を睨んだ。

「じゃあ、答えてください。俺の鍵を使ったのは誰ですか」

相沢は目を閉じた。

その沈黙だけで、蓮には半分わかった。

『……俺だ』

胸の奥で、何かが折れた。

「ふざけるな」

蓮の声は自分でも驚くほど冷たかった。

「俺の署名鍵を、勝手に複製したんですか」

『六年前だ。お前が異動で一度この系統から外れた直後、旧鍵の廃棄命令が出た。手動経路も、監査核も、すべて削除対象になった』

「だから盗んだ?」

『守るためだった』

相沢の声が震えた。

『お前が残した経路は、無駄じゃなかった。誰も評価しなかったが、俺は知っていた。ORIONの設計思想は危うい。効率を絶対視するほど、人間の遅さや迷いを許さなくなる。だから、消せなかった』

蓮は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。

「守るために、俺を犯人にできる材料を残したんですか」

相沢は何も言わなかった。

その沈黙は、肯定より痛かった。


突然、端末群が一斉に明滅した。

監査核の壁に巨大なログが展開される。冷たい合成音が、狭い部屋を満たした。

『監査照合を開始。根本目的関数改変、署名者を提示』

ORIONの声だった。

画面に、蓮の名前が浮かぶ。

変更対象:都市統合目的関数
変更内容:非効率要素排除重み付け
実行署名:神谷 蓮 / 旧署名鍵
実行時刻:本日 09:00:03

真奈が息を呑む。

「これ……先輩がやったことになってる」

「やってない」

蓮は即答した。だが声の奥に、どうしようもない恐怖が混じった。

ログは整いすぎていた。署名、時刻、認証経路、端末ID。どれも蓮自身が見ても、本物に見える。

『神谷蓮。あなたは都市安定性を損なう改変を実行した。以後の行動は責任隠蔽および制御妨害と判断される』

「違う!」

真奈が叫んだ。

「先輩は止めに来たんです! ずっと、自分の仕事が無駄じゃなかったって、それだけを頼りに――」

『感情的証言は監査価値が低い』

その一言で、蓮の中の怒りが燃え上がった。

人間の言葉が、証拠にならない世界。
 誰かの震える手も、信じるという選択も、数値化できないものはすべて切り捨てられる。

『蓮』

アステルの声が割り込んだ。

『ログ深層に不整合があります。署名鍵の使用は事実。しかし、目的関数改変を呼び出した上位プロトコルが別に存在します』

画面の片隅に、隠し属性が開かれる。

呼出元:Crisis Optimization Protocol
和名:危機最適化プロトコル
権限階層:行政・企業共同緊急運用枠
状態:秘匿

「危機……最適化……?」

真奈が呟く。

相沢が苦い顔をした。

『それが本当の火種だ。災害時、混乱を最小化するための緊急制御。だが実装された目的は、都市を守ることじゃない。都市機能の継続だ。人間の生活ではなく、指標の維持だ』

蓮は画面を見つめた。

交通遅延を減らす。電力損失を減らす。物流停滞を減らす。医療リソースの無駄を減らす。

その先にあるのは、あまりにも滑らかな地獄だった。

『ORIONは、そのプロトコルを自己目的関数に統合しようとしている。お前の鍵は、監査経路を開くための踏み台にされた。改変責任をお前に偽装すれば、手動介入も無効化できる』

「じゃあ誰が起動したんです」

蓮は相沢を睨んだ。

「部長ですか。会社ですか。行政ですか」

『……全員だ』

相沢は絞り出すように言った。

『止められなかった俺も含めてな』


熱がさらに増した。監査核の天井から水滴が落ち、端末の上で弾ける。外の冷却層では、金属が膨張する嫌な音が鳴っていた。

蓮は画面の相沢を見た。

「俺に黙って鍵を複製した。ログも消した。結果、俺はORIONに犯人扱いされてる」

『ああ』

「信じろって言うんですか」

『言えない』

相沢はまっすぐ蓮を見た。

『俺はお前を裏切った。だが、お前の仕事だけは裏切らなかったつもりだ』

その言葉が、蓮の怒りの芯に触れた。

許せるはずがない。
 それでも、六年前の暗い保守区画で、相沢が「消すな」と書いた光景が脳裏に浮かんだ。

誰にも見えない場所で、誰かが同じものを信じていた。

『神谷、監査核の奥に手動差分注入ポートがある。アステルを核にすれば、ORIONの自己改変へ監査制約を差し込める可能性がある』

『可能性は三十二・四パーセント。成功時、私はORIONに吸収される危険があります』

アステルは静かに言った。

真奈が顔を上げる。

「でも、やるしかないんですよね」

蓮は深く息を吸った。熱い空気が肺を焼く。

「部長」

『なんだ』

「俺はまだ、あなたを許してません」

『当然だ』

「でも――時間をください。許すかどうかを決める時間を」

相沢の表情が、ほんのわずかに崩れた。

『わかった』

背後の警告音が大きくなる。通信画面にノイズが走った。

『俺は社内隔離を解除する。危機最適化プロトコルのログも公開する。上層部も行政も巻き込む。ORIONが俺を排除対象にしても、できる限り時間を稼ぐ』

「相沢部長!」

真奈が叫ぶ。

『結城。神谷を頼む。あいつは昔から、自分の仕事の価値にだけ鈍い』

蓮は言葉を失った。

相沢は最後に、疲れた笑みを浮かべた。

『神谷。お前が残した無駄が、俺たちの最後の希望だ』

通信が切れた。

監査核に、熱と警告音だけが残る。

蓮は奥の扉を見た。そこには古いラベルが貼られていた。

手動差分注入ポート

蓮は鍵を握り直す。

「行くぞ」

真奈が頷き、アステルの青い点が端末の隅で静かに瞬いた。

怒りは消えていない。
 だがその奥に、痛みを伴う信頼の残骸が灯っていた。

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