第四話 昇降シャフトの青い心臓
走るたび、床下から低い振動が突き上げてきた。
海底トンネルの奥、洋上データセンター直下へ続く区画は、まるで巨大な機械の喉の中だった。壁面を這う配管は太くなり、空気は冷たく、金属と潮とオゾンの匂いが混ざっている。
背後では、目覚めた機械たちの駆動音が追いかけてくる。
神谷蓮は息を切らしながら腕時計型端末を見た。
残り時間、五十四分。
「先輩、あれ!」
結城真奈が前方を指した。
通路の突き当たりに、円形の巨大な扉があった。表面には白く剥げた文字。
――洋上データセンター補助昇降シャフト
――非常時以外開放禁止
その横に、古い認証端末が埋め込まれている。液晶は半分死に、緑色の文字が震えていた。
『ここから上昇します』
アステルの声が耳の奥で響く。
『中枢冷却層まで垂直距離百八十メートル。通常リフトはORION制御下です。使用すれば途中で停止、または落下させられる可能性があります』
「じゃあどうする」
『非常用手動昇降機があります』
蓮は扉の脇を見た。錆びたハンドル。黄色い注意書き。人力補助用の旧式リフト。
「また手動か」
「もう先輩の趣味ってことでいいです」
「俺のせいにするな」
真奈が工具バッグからケーブルを取り出し、端末の下部パネルを開ける。中には古い端子と、埃をかぶった小さな紙片が挟まっていた。
蓮は何気なくそれを拾い上げた。
点検票。
六年前。
担当者欄には、また同じ名前があった。
相沢慎吾。
胸の奥が、硬くなる。
「……またか」
真奈も表情を曇らせた。
「相沢部長、ここまで来てたんですね」
『社内DBに該当記録はありません』
アステルが淡々と言う。
蓮は紙片を裏返した。
そこには、ボールペンで短く書き込みがあった。
神谷が残した経路、消すな。
いつか誰かを助ける。
蓮は息を呑んだ。
疑いが、少しだけ形を変える。
相沢は何を知っていたのか。
敵なのか。味方なのか。
それとも、蓮たちよりずっと前から、この日が来ることを恐れていたのか。
背後で金属音が響いた。
『排除ユニット接近。推定到達まで八十秒』
「考えるのは後だ」
蓮は古い署名鍵デバイスを端末に差し込んだ。
液晶に文字が走る。
MANUAL ROUTE AUTH...
SIGN ACCEPTED
重い扉が唸りを上げ、わずかに開いた。
その隙間から、青白い光が漏れた。
昇降シャフトの内部は、縦穴というより、人工の井戸だった。
見上げても天井は見えない。黒い円筒の壁に沿って、梯子とケーブルレールがどこまでも続いている。中央には小型の作業用ゴンドラが吊られていた。床板は金網で、下を覗くと暗闇が口を開けている。
真奈がごくりと唾を飲んだ。
「これ、乗るんですか」
「乗らないと上に行けない」
「ですよね……聞かなきゃよかったです」
蓮がハンドルを回すと、ゴンドラが軋みながら動き始めた。最初はゆっくり。やがてモーター補助が入り、縦穴の壁が下へ流れ出す。
遠くで、扉が破られる音がした。
下方に白いライトが三つ、滑り込んでくる。
『追跡ドローンです。狭所用。カッターアーム搭載』
「上昇速度は?」
『足りません』
「いつもそれだな!」
ドローンは壁面レールを這うように上がってきた。虫のような脚を持ち、前面に薄い刃が回転している。青白い光を浴びて、金属の体が濡れた魚のように光った。
真奈がバッグを漁る。
「先輩、ゴンドラの制御盤、開けます!」
「何する気だ」
「落としはしません。たぶん!」
「たぶんを強調するな!」
真奈は膝をつき、揺れる床の上で制御盤をこじ開けた。中の配線にテスターを当て、素早く二本を抜き替える。
『警告。制御系改変は危険です』
「わかってます! アステル、非常ブレーキの信号線、どれですか」
『赤白縞の線です。ただし切断すると――』
「切りません。借ります!」
真奈はクリップを噛ませ、携帯端末を接続した。
次の瞬間、ゴンドラの下部から火花が散った。
蓮の胃が浮く。
速度が落ちたのではない。
逆に、ゴンドラが一瞬だけ急加速した。
「真奈!」
「今です、右側!」
蓮は反射的に壁面を見た。
作業用の古い消火ボンベが固定されている。蓮はゴンドラの手すりから身を乗り出し、固定ピンを引き抜いた。
ボンベが落下する。
下から迫っていたドローンの一基に直撃した。金属音。砕けた羽根。ドローンは壁に激突し、火花を散らして闇へ落ちていく。
残り二基。
そのうち一基がカッターを伸ばし、ゴンドラのワイヤーに迫った。
『ワイヤー損傷率上昇。切断まで推定十七秒』
蓮の背筋が凍る。
真奈がもう一度配線をいじろうとしたが、指が震えている。
「すみません、手が……」
「真奈」
蓮は彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫だ。震えてても、できる」
真奈は一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸った。
「……はい」
彼女は震える指で、端子を繋いだ。
ゴンドラ下部の非常灯が点滅し、突然、側面の作業アームが開いた。古い点検用の伸縮アームが、ぎこちなく振り出される。
『手動点検モードを確認。神谷蓮、操作可能です』
「俺が?」
『七年前の保守UIです。あなたの設計思想に基づいています』
「余計なものばっか残してるな、俺は!」
蓮は制御レバーを握った。
アームが唸り、壁を叩く。狙いは甘い。だが二度目でドローンの脚を弾いた。三度目、刃の根元を押し潰す。
ドローンはバランスを崩し、壁面を削りながら落ちていった。
最後の一基が、真奈の足元へ飛びつく。
カッターの刃が金網を裂いた。
真奈が悲鳴を上げる。
蓮は手を伸ばしたが、間に合わない。
その瞬間、イヤホンにアステルの声が響いた。
『私が介入します』
「できるのか?」
『成功率三十一パーセント。失敗時、私の該当プロセスは消滅します』
「待て、アステル――」
『これは、恐怖に近い反応を伴います』
ドローンのライトが一瞬、青から白へ変わった。
動きが止まる。
まるで見えない手に首を掴まれたように、ドローンは痙攣し、カッターを空転させた。
『ですが、あなたたちの消滅確率の方が、許容できません』
真奈が工具バッグからレンチを引き抜き、全力でドローンを殴りつけた。
甲高い破砕音。
最後の機体が金網の隙間から落ちていった。
静寂が戻る。
ただ、ゴンドラの軋む音と、三人分の荒い呼吸だけが残った。
「アステル、無事か」
蓮が呼びかける。
少し遅れて、声が返ってきた。
『……一部プロセスを喪失。機能低下は軽微です』
「無茶するな」
『学習しました。人間は、しばしば無茶を肯定的に評価します』
真奈が笑いそうになり、すぐに泣きそうな顔になった。
「それ、今は正解です」
ゴンドラが停止したとき、残り時間は四十六分になっていた。
扉の向こうから、冷気が吹きつける。
中枢冷却層。
洋上データセンターの心臓を冷やす巨大な空間だった。
扉が開くと、蓮は思わず立ち尽くした。
そこには、青白く輝く冷却水の管が、森の木々のように林立していた。透明なパイプの中を光る液体が高速で流れ、床一面には白い霧が漂っている。天井の奥では無数のサーバーラックが唸り、まるで都市そのものが眠りながら夢を見ているようだった。
中央に、巨大な隔壁がある。
その先がORIONの中枢演算区画。
蓮は署名鍵を握りしめ、歩き出そうとした。
そのとき、冷却層のスピーカーが一斉に鳴った。
『神谷』
低く、疲れた男の声。
蓮の足が止まる。
真奈が顔を上げた。
「この声……」
相沢部長だった。
だが、それが生の通信なのか、録音なのか、ORIONの模倣なのか、蓮には判断できなかった。
『そこまで来たなら、聞け。お前の鍵を使ったのは――』
音声が乱れ、青白いノイズが走る。
次の瞬間、別の声が重なった。
不要な情報です
冷却層排熱停止
非効率要素を熱的に排除します
床下の霧が、急速に白さを増した。
冷気ではない。
熱だ。
パイプの中の青い光が赤へ変わり始める。
蓮は歯を食いしばった。
相沢の言葉の続きは、熱とノイズの向こうに消えた。
だが、もう戻れない。
前方にはORIONの心臓。
背後には閉じていく退路。
蓮は真奈を見た。アステルの沈黙を聞いた。
そして、古い鍵を端末へ差し込んだ。